早見優、松本伊代など大物アイドルの一員、“花の82年組”のひとり、堀ちえみさん。 当時、「スチュワーデス物語」で人気アイドルになりました。
1999年に最初の旦那である外科医の方と離婚をされ、当時8歳、6歳、5歳だった男の子3人を抱えたシングルマザーになりました。
その後、再々婚されて現在は幸せに穏やかに暮らされています。最初の旦那について、またこれまでの結婚相手や現在の夫について調べてみました。
1989年外科医との結婚
最初の結婚は、1989年に10歳年上の奈良県内の外科医と結婚しました。
昭和62年に一度体調不良を理由に芸能界を引退されました。その後、結婚。
結婚後、子宝にも恵まれ、1990年に長男の昂平(こうへい)さん、その2年後の1992年に次男の健汰(けんた)さん、その次に年子で1993年に三男の叡弘(あきひろ)さんが誕生しました。
1999年1人目の夫と離婚
全員男の子でしかも年も近い子供達を抱えての中、しばらくは専業主婦として過ごしていましたが、3年以上の別居、裁判を経て1999年に離婚されています。
離婚訴訟中だった1997年3月、「女性セブン」が離婚理由は夫の暴力であった旨を掲載したのです。
その記事を無断掲載された件で、元夫の医師が「女性セブン」発行元の小学館を相手取り、損害賠償を求めて提訴した裁判の中で、堀ちえみさんは結婚の翌年(1990年11月)から旦那からの暴力があったと、当時の様子を赤裸々に語っています。
奈良地裁葛城支部で開かれた口頭弁論では、小学館側の証人として堀さんが出廷。
堀さんは証言台で感情を抑えきれない様子を見せながら、元夫から受けた暴力行為について詳しく語った。
問題となった『夫の暴力六年の修羅』という記事の内容が事実であることを証言。
1995年の離婚決意に至るまでには自殺を考えるほどの精神的苦痛があったことも打ち明けた。
またその証人として出廷した際、きっかけは些細な食事中の出来事で夫からの暴力が始まったと証言しました。
新聞を読むのを控えるよう夫に頼んだところ、「俺の気持ちを知らない」と言って頭を殴られた。
1995年8月15日の家族キャンプの帰り道での出来事が、離婚を決意する転機となる。
夫が不機嫌になり、車中で約20回も頭を殴られ、5日間も頭痛や吐き気に苦しんだと述べた。夫がサバイバルナイフを持っていたこともあり、長男を連れて逃げ出し、自殺まで考えたと証言。
また、夫の妹たちも兄の暴力傾向を心配し、結婚直後の堀さんに暴力の有無を確認していたことも明らかにした。
その後、1999年に1度目の離婚をされて、当時8歳、6歳、5歳だった男の子3人を抱えたシングルマザーになられたようです。
その間、関西を中心に芸能活動を再開されました。

まだ幼い子3人も連れて、時間に不規則な芸能活動もされていたので大変だったと思います。
1度目の離婚後の日常
早朝の番組出演やロケがある日は、まず子供を幼稚園に送ってから仕事に向かっていたそうです。
幼稚園が休みの日はベビーシッターを依頼していたとのことですが、その費用を捻出するためにさらに長時間働く必要があったと語っています。
仕事が終わった後の打ち上げを含め、深夜まで働き、帰宅後も翌朝は早起きして子供のお弁当を作り、送り出すという生活を繰り返していたようです。
そんな母親の働く姿を見て育った上の3人の子供たちは、「芸能界には入らない」と決意したとのエピソードも語っています。
2000年に雑誌編集者と再婚
その後、2000年に堀ちえみさんと同じ年(1967年生まれ)の雑誌編集者・加藤芳樹さんと再婚されました。
1997年4月から当時雑誌編集者の方と1人目の旦那との間に授かった3人の息子とともに同居されています。
つまり、1人目の夫と離婚前の別居中から既に同居されていたことになります。
2000年に四男の楓季(ふうき)さんが誕生、2002年に長女の彩月(さつき)さんが誕生して7人家族になったのです。
再婚後のエピソード①
当時を振り返るインタビューで、子供5人を育てるのに必死になって働いていた再婚後の様子を語っています。
上の子供たちの学費も重なり、以前より多忙な日々を送っていた。
仕事のため大阪と東京を行き来する生活となり、週の半分は東京で過ごすこともあった。
末っ子が小学生になるまでは、必ず終電で大阪に戻り、翌朝は始発で東京へ向かうという生活を心がけていた。
深夜1時に帰宅しても、寝ている子供たちの手を握ってわずかな時間を共に過ごし、朝5時には再び家を出るという生活を数年間続けていた。



「母は強し」とも言いますが、子供達の為にまさに必死になってその「今」を過ごしていたのだと思います。
シングルマザーではなくなったとはいえ、お子さんが5人というのは大変だったのではないかと想像できますね。
再婚後のエピソード②
堀ちえみさんは、年齢の小さい下の2人の子供たちの世話に時間を取られ、上の3人の子供たちに寂しい思いをさせているのではないかと心配していました。
しかし、子供達との年齢差があったからこそ、上の子たちは下の子たちをかわいがり、よく面倒を見てくれたそうです。
父親が異なることも自然と理解していた子供たちの姿を見て、恵まれていると感じていたとのことです。
しかし、1年半の別居を経て2010年6月に2度目の離婚をされました。後に、離婚理由について堀ちえみさんは次のように語っています。
2人目の夫が独立後、仕事が忙しく事務所に寝泊まりすることも多かったとのこと。
堀ちえみさんも週に3日は仕事で大阪から東京に出るなど忙しくしていた為、2人の間ですれ違いが大きくなった。
堀ちえみさんは、「山と自然が好きで、大きなロマンを持っている彼をサポートしてあげられなかった」と当時を振り返っている。
2011年12月に一般人と3度目の結婚
2人目の夫と離婚後、約1年半後の2011年12月に一般人の方と再々婚しています。
2度目の離婚の際、堀ちえみさんは「2回もダメっていうのは情けない。結婚は考えたくない。」と話していました。
一般人の現在の夫について
一般人の方ですが、堀ちえみさんのオフィシャルブログにも度々登場されていますし、ご自身でもオフィシャルブログ「尼子勝紀」を立ち上げ発信されています。
3度目の結婚相手・尼子勝紀さんは、機器メーカーSANKYOの執行役員になられています。(2020年4月)
またご主人は、戦国武将・尼子経久の末裔との情報もあるようです。
一般人とのことですが、かなりのステータスのある方とも言われています。
ご主人も再々婚のようで、2人のお子さんがいます。ですので、子供7人の大家族となりました。
現在の夫との運命的な出会い
現在の夫との出会いですが、元々は堀ちえみさんの大ファンであったとの話もあります。
2人が出会ったのは、堀ちえみさんが2度目の離婚から3ヶ月後の2010年9月。
当時の堀ちえみさんの自宅付近で、東京から堀ちえみさんの住む大阪の阿倍野に当時転勤で大阪に来ていた現在の夫が次のように声をかけたそうです。
「昔からのファンなんです。会えてよかった。ずっと会いたかったんです。」
その時の堀ちえみさんの印象は、スーツ姿で身なりもしっかりされていて「素敵なかっこいい人」という印象だったようです。次にもし会えたら、名刺を頂こうと思ったそうです。
現在の夫との結婚までのエピソード
初めて大阪で出会ってから、約3ヶ月後の2011年1月。
同じ伊丹発羽田行の便に乗っていたようで、羽田空港で再会したのです。その際、現在の夫は次のように声をかけたとのことです。
「この間はどうも。また会えて良かったです。」
きっと、堀ちえみさんにしても偶然なのかびっくりされたのではないでしょうか?
その際、お互いが2度離婚経験があること。子供をお互い育てていることなど共通点や共感できることが多く、親近感を持ったとのちに語っています。
そして、3度目の出会いが、そこから3ヶ月後の2011年4月。
堀ちえみさんが銀座をマネージャーと歩いている際、偶然出くわしたそうです。



こんなに何度も偶然ってあるのですね⁈
その時、現在の夫が、「食事でもどうですか?」と誘い、マネージャーと3人で食事をしたのがお付き合いに至ったきっかけのようです。
まとめ
この記事では、堀ちえみさんの最初の旦那は外科医で、これまでの結婚相手や現在の夫について調べてみました。
- 最初の結婚は、1989年に10歳年上の奈良県内の外科医と結婚
- 1人目の夫とは3年以上の別居、裁判を経て1999年に離婚
- 2000年に堀ちえみさんと同じ年(1967年生まれ)の雑誌編集者・加藤芳樹さんと再婚
- 2人目の夫とは1年半の別居を経て2010年6月に2度目の離婚
- 2人目の夫と離婚後、約1年半後の2011年12月に一般人の方と再々婚
- 現在の夫で3度目の結婚相手・尼子勝紀さんは、機器メーカーSANKYOの執行役員を経験
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