1982年、東京・赤坂ホテルニュージャパンで前例のない大規模火災が発生しました。
燃え盛る炎の中へ自ら突入したのが東京消防庁特別救助隊の隊員たちでした。
消防出動人員として、消防職員627名、消防団員22名を投入。
活躍した隊員たちの中の、隊長・高野甲子雄と隊員の浅見昇の消防士の活躍とその後はどうしているのか?について調べてみました。
ホテルニュージャパンの火災のあらすじ
1982年2月8日未明、東京・赤坂のホテルニュージャパンで前代未聞の大火災が発生。
この火災で残念ながら33名が亡くなりましたが、消防隊の命をかけた救助活動で66名が助けられました。
施設を所有していたのは社長の横井英樹。
消防設備の管理が不十分で、壁紙の内側は空洞だらけのブロック構造、スプリンクラーも実は水も出ない飾りで実質的に機能していませんでした。
社長の指示により、経費を浮かすため加湿器も止めていたので、ホテル内は異常に乾燥していたとのことです。
火災の原因
火災の発生源は9階にある938号室のベッド周辺で、1982年2月7日、当時国籍の男性客が宿泊していました。
調査によると、就寝中の喫煙の不備が発火の原因とされています。
具体的には、放置された煙草の吸い殻からベッドの毛布あるいはシーツに火が燃え移ったと考えられています。
火災発見とその後の状況
最初に火災を察知したのはフロントデスク担当者の1人でした。
休憩のため9階までエレベーターで上がったところ、煙の匂いに気づき、938号室のドアの隙間から出る煙を目撃しました。
この従業員は1階に戻り、他のフロント係に指示を出したのです。
消防当局への第1報は午前3時39分頃に入り、これは実はホテルスタッフではなく、近くを通りかかったタクシードライバーからのものだったのです。
続いて第2報も、近隣の議員宿舎に滞在していた人物から、同じく午前3時39分台に入電がありました。
ホテル側からの通報は、火災を発見したフロント係から指示を受けた従業員によってされたのですが、彼らは社長の横井英樹から怒られることを恐れて、発見からなんと20分も経過してからの通報となったのです。

発見から20分も経過してからの通報だったとは…信じられませんね。
当時の消防士・高野甲子雄
1979年当時、東京消防庁では高野甲子雄さんが特殊な選抜試験である特別救助隊の採用試験に臨んでいたようです。
試験には体格に恵まれた隊員が集まる中、高野さんは身長わずか165cmという小柄な体格で不利な立場にありました。
これが高野さんにとって4回目の挑戦でしたが努力の末、ついに合格を勝ち取ったとのことです。
消防士・高野とホテルニュージャパンの初めての接点
その後2年半が経過し、高野消防士は東京・永田町の特別救助隊において班の指揮官として任務にあたっていました。
高野消防士の下には体力のある5名の部下が配属されていたようです。
1981年12月、高野消防士はホテルニュージャパンへ安全確認のための視察に向かっていました。
建物内部は複雑に入り組み、迷路のような構造をしていて、壁を軽く叩くと空洞のような反響音が返ってきたとのことです。
天井部分には消火用スプリンクラーの設置がなく、これは明らかな法規違反だったため、高野消防士はホテル側に警告書を提出しました。
社長の横井英樹はすぐの改善を約束し、間もなくスプリンクラーを取り付けましたが、実際は水が出ない装飾品同然のものであったのです。
火災現場での救出①到着後
高野消防士の部隊は他の部隊より先に、ホテルニュージャパンの現場へ到着しました。
そこには未曾有の巨大な炎が空に向かって立ち上り、9階と10階には逃げ場を失った宿泊客が取り残されていました。
絶望的な状況の中、1人の女性宿泊客が9階から転落し命を落としたのです。
高野消防士は、他の隊員たちに冷静さを保つよう指示し、燃え盛る建物へと突進したのです。



宿泊客が転落したのを目の当たりにしたなんて、考えただけで壮絶な現場だったことが伺えますね。
火災現場での救出②9階到着後
酸素ボンベを背負った高野消防士たちは9階まで階段を駆け上がりました。
非常口に到達したものの扉が開かないという事態に直面したのです。
午前4時を過ぎる頃には、なんと消防車両128台がホテル周辺に結集していました。



128台とは凄まじい数の台数です!
報告によると、はしご車では接近不可能な部屋も少なくなかったとのことです。
行き詰まりを感じた高野消防士たちは、新たな救助ルートを求めて屋上へと向かいました。
下を覗き込むと、窓から身を乗り出し飛び降りようとしている韓国人観光客の姿が見えたとのこと。高野消防士は、迅速にロープを投げ下ろし、この危機一髪の状況から旅行者を救出しました。
さらに9階の一室から助けを求める声が聞こえてきたので高野消防士は、迷いなく突入を決断。
この勇敢な行動により9名の命が救われたのです。
消防士・浅見の活躍
この大火災では、何人もの消防士が活躍されましたが、その中でも高野消防士と共に活躍された浅見消防士がいました。
部隊で最も機敏な浅見消防士
9階から救出された1人が、まだ奥に取り残された人がいると叫び声を上げました。全隊員がその部屋を確認すると、猛烈な炎が今にも室内に侵入しようとしている危険な状況が広がっていたのです。
救助活動の続行は危険性が高すぎると思われました。でも、まだそこには助けを求める人がいたのです。
高野消防士は次のように考えたと後に語っています。
このまま見捨てれば、今後どれほど多くの命を救おうとも、見て見ぬふりをしたという罪悪感が生涯消えないだろうと。
10階はものすごい煙で満たされていました。しかし、高野消防士は救出を決断したのです。
高野消防士の部隊で最も機敏な浅見消防士を最初に突入させました。
浅見消防士の決死の活躍
煙で満たされた10階で建物内の捜索・救助活動を行っていたため、浅見消防士は呼吸器ボンベ内の空気を大量に使用していました。
男性宿泊客を助けている最中に、空気タンクの残量低下を知らせる警告音が鳴ったため、仲間の消防士から「すぐに避難するように」と命じられました。
そのため浅見消防士は、やむなく救助中の宿泊客をその場に残して屋上まで戻り、空気タンクを新しいものに取り替えた後、自ら進んで先ほどの要救助者の救出活動を再開することを申し出ました。
しかし、いつフラッシュオーバーが起きてもおかしくない状況だったため、高野消防士自らが救助活動を行ったのです。



この救助活動中も、浅見消防士の胸元には娘さんの写真が入っていたのでしょう。
救助活動後の高野消防士
この救出活動で、高野消防士は重度の火傷を負ったのです。
高野消防士自ら「私が行く」と宣言し、10階の部屋へと飛び込む勇敢な姿があったのです。
炎に包まれる高野消防士
救助活動中、体格の良い男性を発見し、ロープで確保しました。
その男性を抱き抱え窓辺まで運び、ロープを引くよう合図を送った瞬間、突如としてフラッシュオーバー現象が発生し、高野消防士は炎に包まれてしまったのです。
隊員たちは必死になってロープを引き上げました。すると猛烈な火炎の中から、男性を抱きかかえた高野消防士の姿が現れたのです。
2人とも屋上まで引き上げられましたが、共に重度の火傷を負っていました。
高野消防士と浅見消防士のその後
高野消防士はホテルから近距離にある医療施設へと緊急搬送されました。
仲間の隊員たちが病室を訪れた際、全員が黒ずんだ防火服姿のままだったそうです。高野消防士の状態を目の当たりにして、全隊員が感情を抑えきれず涙を流したとのことです。
浅見消防士は火災の救助活動を終えた後、2日ぶりに家に戻り1人娘麻裕子さんを抱きしめたそうです。



命が助かって本当に良かったです。
高野消防士と浅見消防士の現在
高野消防士は現在、経験を活かして、講演会や災害現場で実際に活動できる人材を育成するために防災教育を精力的に提供しています。
ボランティアとして、阪神・淡路大震災、新潟や長野での水害被害、定年退職後も東日本大震災において発生から3日後に福島の災害対策本部に入り、福島県、宮城県、岩手県で約18ヶ月間支援活動を続けていたそうです。
浅見消防士の現在の詳しい情報はわかりませんが、当時の活躍が今現在も語り継がれています。
まとめ
この記事では、ホテルニュージャパンでの火災の救助にあたった高野消防士と浅見消防士の活躍とその後について調べてみました。
- 1982年2月8日未明、東京・赤坂のホテルニュージャパンで前代未聞の大火災が発生。
- イギリス人旅行者の就寝中の喫煙の不備が発火の原因。
- ホテルニュージャパンの天井部分には消火用スプリンクラーの設置がなく、これは明らかな法規違反だった。
- この大火災では、何人もの消防士が活躍されましたが、その中でも高野消防士と共に活躍された浅見消防士がいた。
- 部隊で最も機敏な消防士が浅見さんだった。
- 突如としてフラッシュオーバー現象が発生し、高野さんは炎に包まれ重度の火傷を負った。
- 高野さんは現在、経験を活かして、講演会や災害現場で実際に活動できる人材を育成するために防災教育を精力的に提供。
- 浅見さんの現在の詳しい情報はわかりませんが、当時の活躍が今現在も語り継がれている。
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