高校時代前は2人はどんな少年だったのか?
MLBのマリナーズやヤンキースなどで活躍し野球界のレジェンド・イチローと、同じくヤンキースなどで活躍し日米通算で507本塁打を記録、国民栄誉賞を受賞している松井秀喜。
日米球界を代表するスターであり、後世に語り継がれるライバル同士と考えられている2人。
イチローは1973年、松井は1974年生まれ。ともに外野手で左打ちであり、共通点は多いと言われています。
高校時代前は一体どんな少年だったのかを調べてみました!
イチローの少年時代
1973年10月22日 愛知県西春日井郡豊山町出身。小学3年生で地元のスポーツ少年団に入りました。
「この少年時代があるから、今のイチローがある」そんな風に思わせるエピソードがたくさんあります。
イチローといえば、チチローの愛称で知られている父親の鈴木宣之さんも有名ですよね!
その父親宣之さんの言葉も交えてご紹介します。
・3歳の時に、はじめておもちゃのバットとボールを持たせたら、その日から寝る時も離さなくなったほど、野球好きな子どもだった。
・小学3年生で地元のスポーツ少年団に入り、エースで4番として活躍。当時は日曜日しか練習がなかった。もっと練習をしたいと思ったイチローは、「平日はお父さんと野球する」と言い出したので、毎日、学校から帰ってきて暗くなるまでキャッチボールをした。
・毎日だいたい3時間くらいの練習。学校が終わるとすぐに父と一緒にグランドに行って軽くウォームアップ。その後キャッチボールに移りそのまま投球練習、守備練習(内野50球、外野50球)。トスバッティングをやってその後父を相手にフリーバッティング。その後バッティングセンターでの練習に移る。
・イチローはこれ以外にも習字塾やそろばん塾、囲碁といったものもやっていたのでそういうのを含めたスケジュールだと正直平日は遊ぶ余裕なんてとてもなかった。
・バッティングセンターには学校や塾の宿題の関係で閉店間際の夜11時に行くこともあった。
・父とのマンツーマンの練習以外にも思い立った時に素振りもやっていた。
・小学6年生では、「夢」という課題の作文の中で、はっきりと「将来は、一流のプロ野球選手になりたい」と書いている。
・中学時代も豊山中学で軟式野球部に所属。エースで中軸(主に3番)で活躍。バッティングセンターに通い続けていた。
いかがですか?
イチローには、少年時代から誰にも負けないぐらい練習をしてきたという誇りがあるのでしょう。
3歳の時に、はじめておもちゃのバットとボールを手にしたイチロー。
子どもの夢は、親の支えがあってこそ芽生えるものなのかもしれませんね。
松井秀喜の少年時代
1974年6月12日 石川県能美郡根上町(現能美市)出身。
少年時代は野球のみならず、柔道でも強さを発揮していたようです。スポーツ万能な少年時代でした。
「並外れたパワーと強い精神力」を持ち合わせている松井秀喜。
一体どのような少年時代を送っていたのかをご紹介します。
・小学1年生の時に3年生以上で構成される軟式野球チーム「根上少年野球クラブ」に、当時5年生であった兄が所属していた縁で特別に入団。だがまだ幼すぎて監督の指示などが理解できず、入団1週間で指導者の方から、両親に「(チームに入るのは)もう少し待ってほしい」と言われたようで野球を辞めてしまった。
・小学3年からは町の少年柔道教室に通い始める。能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り、国体強化選手にも選ばれていた。
・少年時代は、阪神タイガースファンだった。
・小学5年生の夏休みに再び軟式野球チームに入り、本格的に野球を始めた。その頃から既にプロ野球選手に憧れ始める。
・リトルリーグで最初は右打だったが、ハンデで左打ちにさせたら左打ちでもHR連発。その後右投左打が定着したらしい。
・他にも地元の相撲大会で活躍したり、ピアノを演奏していた。
・進学した能美市立根上中学校には柔道部はなく、野球部があったため野球に専念することになる。
・中学時代は野球で捕手をつとめ、3年から投手兼三塁手に転向した。
当時から松井秀喜の並外れた体格の良さ、精神力の強さがその後の活躍に表れていたのでしょう。
素晴らしい身体能力と精神は、その後の輝かしい成功に繋がっているのですね!
2人の知られざる高校時代の活躍
中学のころからお互いの存在を意識し、高校時代は交流試合で互いに全力でぶつかり合ってきた2人。
その2人の活躍に迫りました。
イチローの高校時代
甲子園に出場して、プロに入るために野球名門校である名古屋市にある愛工大名電高校に進学しました。
愛工大名電の主力選手として活躍。1年から三塁手のレギュラーを獲得し、1-3番を担当。
2年時は夏の甲子園に左翼手として出場。決勝で中京高校(稲葉篤紀在籍)を破り出場権獲得。初戦で優勝校となる天理高校(南竜次在籍)に敗退するも、1安打を記録。
3年時はエース兼3番打者。春の甲子園では松商学園(上田佳範在籍)に初戦敗退。夏は愛知大会決勝で東邦高校に敗れる。同校の林尚克とはライバル関係にあった。先輩に伊藤栄祐、後輩の松井秀喜(星稜高校)とも面識があった。
3年間の成績は打率.501(269安打/536打数)、本塁打19本、二塁打74本、三塁打28本、盗塁131。特に3年時の地方大会では打率7割超を記録し、監督から「宇宙人」と呼ばれた。
元々投手だったが、1年時の1990年3月に自転車での通学中に交通事故で負傷。全治1か月の足の怪我により投球フォームが変化し、野手に転向。ただし、投手としても有望視されていた。
引用元:イチローWikipedia
愛工大名電で2年夏、3年春に甲子園に出場するなど活躍したイチローですが、その当時の自身を振り返り「ダメな高校生だった」と語っています。
その理由として「声を出さなかった。チーム内で一番声を出さなかった。黙々とプレーをしたタイプ。でもその考え方は、今は変わっています。当時の僕に今の僕が会ったら怒ります。」と後に話しています。
そんなイチローが高校に入学したての5月の頃は、練習試合に投手として出場し、散々打たれた後に、「野球をやめたい」ともらしたこともあったそうです。
ただ、入学当初から「甲子園が目標ではありません。プロになれる選手を目指す。」という強い気持ちがあったとのこと。高校時代をよく知る恩師・球友の証言からは、「高校レベルの練習は中学で終えていた」ともあります。
日頃から、いかにプロという舞台を見据えて取り組んでいたかが見えてきます。
松井秀喜の高校時代
高校は、石川県にある 甲子園常連校の星稜高校へ進学しました。
星稜高校監督・山下の熱心な勧誘と、中学関係者の薦めにより星稜に進学。当初は大学野球までの考えだったが、高校での活躍によりプロ志望が強まる。
入学時は体重超過で入部保留も、減量により克服。入学前から練習試合で4番・三塁手として出場し安打を記録。1年から4番を務め「北陸の怪童」として注目を集める。
2年時、監督の高評価により特例で部のキャプテンに任命。3年春の選抜では、ラッキーゾーン撤去後も初戦で2打席連続本塁打、7打点を記録し大会記録を更新。
高校通算は打率.450、本塁打60本。夏の県大会では3大会連続で4本塁打の記録。最後の本塁打は高校最終打席のべにばな国体決勝で記録し、優勝に貢献。
バックスクリーン直撃の強打力で「20年に1人の怪物」と称される。練習での柵越え頻発により特別ネットの設置が必要となった。ランニングホームランは自身のこだわりにより本塁打数に含めなかった。
引用元:松井秀喜Wikipedia
高校1年生の甲子園の取材通路で、涙を流している松井秀喜がいたとのことです。長椅子に座ったまま、敗戦のショックと4番バッターの責任感を抱えていました。
大きな体格の松井秀喜は「またやり直します」と泣き崩れたようです。その時「甲子園を広いとは感じなかった」と語ったとのこと。
最後の方で必死にひねりだした言葉に、彼のプライドと報道陣の質問に精いっぱい答えようとしている誠実さが表れていた松井秀喜がいたとのエピソードもあります。
高校時代の2人は、技術や成績もさることながら、高校生という枠を超えた並外れた精神力を持ち合わせていたのですね。
過去から現在までの2人の関係性は?
目を見張るような強さや力を見せていた2人。
「ライバル」「不仲」など言われていたこともありますが、実際はお互い尊敬し合い、特別な想いもあるようです。そんな2人の想いを取り上げていきます。
イチローの松井秀喜への想い
イチローの引退時に、松井秀喜が「いつかお酒でも飲みながら話できたら」というメッセージを残してくれたようです。その時、イチローの想いは、久しぶりの再会で食事や飲みながら・・・というのではなく、ユニフォームを着て再会したい、と強く思ったと話しています。
イチローはシアトル、松井秀喜はニューヨークが拠点なのでアメリカでは会う事はないですが、東京ドームだったらユニフォームを着ての久しぶりの再会が叶うんじゃないかな、という想いがあったそうです。
年齢は1歳差。2024年現在イチロー51歳、松井秀喜50歳。まだ動ける年齢。
松井秀喜のユニフォーム姿55番を見てみたい、とイチローは思いました。
東京ドームでの松井秀喜の姿を見るファンも幸せだろうし、それを考えるだけで幸せになるとイチロー自身も語っています。それが、2024年9月にイチロー選抜のエキシビジョンマッチにて、松井秀喜が初参加し実現しました。
現役当時は、2人は何かと比較されがちであったことは意識していたようで、タイプは全く違うけど当時は正直「一緒にするな」と思ったこともあるようです。
しかし、時間が経って今となれば「あぁ、そういう存在がいたということはすごく幸せなことだったんだ」と実感している、同じ時代を生きてきた選手として、いい関係だったんだなと今すごく思う、と語っています。
松井秀喜のイチローへの想い
過去、周りから「2人の仲が良くないのでは…」とよく言われていた時、松井秀喜は次のように語っています。
「比較するのはイチローさんに失礼。選手としてはレベルという意味では全然上ですよ。なぜ比較されていたんですか?自分でも不思議です」と。またそもそも比較対象ではないことを語っています。
「イチローさんはもちろんすべてにおいて素晴らしい。誰もが憧れる存在。ただ、自分とは打者としてのタイプが違うので、イチローさんを見て何かを参考にしようとかはなかったです。自分は長打というものを意識していた打者でしたが、イチローさんはどちらかというと塁に出ることを意識していらっしゃった」とも話していました。
この発言からは、松井秀喜がイチローに対して深い敬意と尊敬を持ちながらも、野球選手としての独自のポジションも保っている、バランスの取れた関係性がわかります。
比較されることへの違和感を率直に述べていることから、イチローの偉大さを正直に認める松井秀喜の謙虚さも感じられますね。
まとめ
本記事では、イチローと松井秀喜のそれぞれの少年時代から高校時代、そして2人の関係性について調べてみました。
同世代のスター選手としての2人の関係は特別なもので、簡単には語れないものがお互いにあるのかもしれません。
以下が本記事のまとめです。
- イチローの少年時代は、毎日、学校から帰ってきて暗くなるまでキャッチボールをしたり、バッティングセンターに通ったりしていた。
- 松井秀喜の少年時代は、その当時から体格の良さと並外れた精神力の強さが際立っていた。
- イチローは、愛工大名電高校時代の3年間好成績を残し、常にプロという舞台を見据えて野球に取り組んでいた。
- 松井秀喜は石川県星稜高校に進学後、1年生から4番打者を務め、その活躍から「20年に1人の怪物」と言われていた。
- イチローと松井秀喜の関係性は、同世代のスター選手として、また異なるスタイルを持つ選手として、お互いを高く評価し、2人は互いを認め合い、尊重し合う「良きライバル」としての関係を築いていた。
2人それぞれ、自身の野球スタイルを追求しながら、結果としてお互いを高め合う存在となっていたのですね!
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